今から約7,000年前(縄文時代)ですが、現在の瀬戸内海が形成され、後に「吉備の穴海」と呼ばれるように、現在の児島半島以北の浅海には「児島」と20余りの島々が存在していました。
一方、陸地側に目を向けると、吉井川、旭川、高梁川の三大河川から流出した多量の土砂の沖積作用で、潮流が穏やかな島々の間は干潟が発達していきました。
奈良時代(8世紀頃)に入ると、河口の干潟、低湿地地帯の排水を改良して小規模な農地開拓が行われましたが、「児島」はまだ瀬戸内海に浮かぶ島のままでした。
室町時代から江戸時代前期に掛けて、国力増進のための組織的、計画的な新田開発が行われるようになり、岡山では城下町建設後の1583年、宇喜多秀家による干拓が始まりました。1618年、現在の倉敷市西阿知から粒浦辺りの干拓により「児島」は陸続きの「児島半島」となり、西側が阿知潟、東側が静かな入り海『児島湾』に変化を遂げました。
1692年~1824年間の池田藩政時代、沖新田、興除新田の干拓が盛んに行われ、江戸時代の寛永年間から慶応年間までの約240年間に約6,800haの干拓地が造成されました。
明治時代に入ると廃藩置県に伴い家禄を奉還した旧藩士たちによる干拓事業の試みが契機となり、1899年(明治32年)から藤田組(大阪の豪商、藤田伝三郎が起業)が児島湾の大規模干拓(藤田開墾)に着手し、約5,500haに及ぶ干拓地が順次着工されていきました。
そして終戦直後の1946(昭和21)年から国営事業(食糧増産対策)として農林省に引き継がれ、1963(昭和38年)最後の七区干拓地が完成しました。
児島湾沿岸農地の増加に伴い干拓地の農業用水不足は深刻さを増していきました。このため用水不足と干害、塩害を一掃し、低湿地の排水強化及び干拓堤防の安全性の確保を目的に、1950(昭和25)年から農林省によって、児島湾を締め切り、淡水湖化して干拓地に農業用水を供給する国内最初の複式干拓工事が開始されました。
そして1959(昭和34)年、児島湾締切堤防の完成により淡水化した人造湖、『児島湖』が誕生したものです。
項目 | 内容 | 備考 |
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湖面積 | 10.88平方km(1,088ha) | APとは、児島湾飽浦港平均水面潮位である。 (AP=TP(東京湾平均水面潮位)+1.333m) |
総貯水量 | 2,607万立方m | |
有効貯水量 | 1,773万立方m(+0.8~-1.00m) | |
利用水量 | 3,723万立方m | |
計画水位 | かんがい期(6月1日~9月30日) AP(+)0.8m 非かんがい期(10月1日~5月31日) AP(+)0.5m 計画洪水位 AP(+)2.89m |
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平均水深 | かんがい期 2.1m 非かんがい期 1.8m |
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最深部 | 9m | |
堰堤長 | 1,558m | |
中国四国農政局資料より |
市町別の流域人口及び流域面積 |
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早島町のみ、行政区域の全部が流域内。 人口について、四捨五入処理のため、各市町の人口を合計した数値と表中の合計の数値は一致しない |
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土地利用形態別面積 |
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環境管理課調べ |
河川名 | 笹ケ瀬川 | 倉敷川 | 鴨川 |
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流域内市町 | 岡山市、倉敷市、総社市、吉備中央町 | 岡山市、倉敷市、玉野市、早島町 | 岡山市、玉野市 |
流域面積 | 298平方km | 148平方km | 39.9平方km |
指定区間延長 | 99.5km 本川24.8km 支川74.7km |
47.0km 本川13.8km 支川33.2km |
11.7km 本川6.8km 支川4.9km |
環境管理課調べ |
①農業用水の確保
児島湖を水源とし流域約5,000haの農地に用水を供給します。
②農地排水の改良
湖面水位を一定に保ち沿岸約770haの農地からの自然排水を促進します。
③塩害の防止
台風等による農作物の塩害を防止します。
①高潮時における防災効果
児島湾締切堤防により高潮を遮断し防護区域約5,100haの湛水被害を防止します。
②洪水時における防災効果
洪水調整池として高潮時には洪水を一時貯留し、干潮時に締切堤防排水門から安全に排水することで、防護区域約5,100haの湛水被害を軽減します。
③締切堤防道路の利用
岡山市街地と児島半島を結ぶ1日約15,000台の車が通行する岡山県南地域を代表する交通路です。
④地震・津波時における防災効果